マツカのおまじないと蜘蛛の糸
ある朝。
まだ朝靄も消えきらず少し薄暗さも残す少し早い時間ではあったが、
今日の天気予報では太陽が出る、と聞いていたマツカは庭に出て、
シーツやキースのセーターなどの洗濯物を干すために
一つ一つ丁寧に洗濯ロープに通す作業をしていた。
地球に住むことを許されている者でも、それは人工的な巨大なドーム内に収められている
居住区域なので、実際の季節の変わり目の温度や雨、雪、そして太陽に直接触れたり、
感じることはできない。ただ人間も元々は自然界の生き物なので、
ある程度の季節感をもたらす刺激がないと脳に良い刺激が減ることになるので、
人体に「刺激を与える」という名目のみで人工的な季節や天候がドーム内にももたらされることはあった。
SD体制という厳重な管理体制下では、技術も進み家事全般をこなす上での機能も進歩して
機械にまかせるだけでほとんど済んでしまう。洗濯物であっても、ランドリーにほおりこんでおけば、
洗濯から乾燥、そして殺菌作業、きれいに畳まれる作業までが全て自動で終えてしまう。
マツカが今やっているようなことは今や年配層にあたる人類でもほとんどの者がしてはいない。
面倒だからである。
でもマツカはなぜかこの作業が好きだった。物思いに耽りながらの時もあれば、
何も考えないで、ただこの作業をしていることもあった。
軍隊というともすれば殺伐となりがちな場所で過ごす時間の方が多いマツカにとっては、
こういう時間は寧ろ「普通の一個人」に戻られるように思えた。
それにマツカはまだ14歳ぐらいで教育ステーション時代に読んだ本の中で
「太陽の光には殺菌作業があるが、それ以外にも”魔”を払う力もある。
そして太陽の光によく当たることで太陽が持つ大きなパワーを受け取ることができる」
と何かの本で読んだのだ。
今思えば、何であのようなことを書いた本を手に取ったのかも忘れてしまったが、
マツカにはその文章がとても印象に残っていたのだった。
キースもマツカも日々仕事に忙殺され、例えドームのガラス経由とはいえ
普段はその日光にすら当たる機会がないので、せめて着ているものだけでも、という
マツカの気持ちから天気がよくなりそうな日には
マツカは朝、庭に出てせっせと洗濯物を干す作業をするのだった。
そんなマツカの心の内など知るはずもないキースは、
洗濯物をわざわざ外で干すマツカを見て
「ふん。かいがいしいことだな。お前は人間の女に生まれていたら
育英都市のさぞ優秀な養育母になれただろうに」と
いつもの辛辣な調子の口調をマツカに投げつけることもあった。
いわれたマツカはただちょっと顔を赤らめ、俯きながらまたその作業に戻るのだった。
「もしキースにあの本のことを言ったら”軍人がそんな非科学的なことをいうな”って
また怒られちゃうんだろうけど...でももし太陽の光にそんな力が本当に
あるんだったら...僕のおまじないみたいなもんかな?」
全ての洗濯物をロープに掛け終える、という作業を終えたとき、
マツカの左の方の視点に、キラッと光るものが見えた。
時折、庭に茂る草木の朝露が反射して光ることもあったので、
普段はあまり気にしないマツカであったが、その日はなぜかそれがとても気になった。
マツカは干し物の家事が一段落したので、何かがキラッと光った方へと歩いていってみた。
この庭は軍の上層部の人間のみが住む超高級高層アパートメントの
すぐ下にあるもので、庭といっても一戸建ての家にあるものとは違い、
芝生の生えた小さな公園ぐらいの大きさはあった。
その庭の周りを囲むようにマツカほどぐらいの背丈の葉っぱが密集して生えるタイプの木が
グルリと植えてあり、その下にはしばらく生えるままにしてあった雑草が
マツカの膝上ぐらいまで茂ってあり、その光ったものを見ようとしたら
ちょっと腰をかがめて、そこを覗き込むような格好になった。
マツカが、琥珀色の大きな目を細めてその茂みをじっと見てみる。
と、そこにはマツカの手のひらをもう少し大きくしたぐらいの蜘蛛の巣が
地面から斜めになる角度で、木の葉っぱの茂みと伸びた雑草にかかるように、ゆらり、とかかっていた。
そしてその蜘蛛の巣の左下には、マツカが今まで見たこともない、
銀色がかった緑の羽に鈍色の二つの斑点を持ったとても美しい蝶が取り込まれていて
それは羽の裏側と胴体をマツカに見せる格好で、弱々しく羽を時折動かしていた。
(ああ、蜘蛛の巣...さっき光っていたように思ったのはこの蝶々だったんだ。可哀想に...もう
長い間、この蜘蛛の巣に掛かっていたのかな。だいぶ弱ってそうだ...)
マツカは助けてやろうか、とも思った。が、それをすることもなぜかためらった。
この蝶はこのままほおっておくと間違いなくこの巣の持ち主の蜘蛛の餌食になるのは
時間の問題であろう。しかしそれはそれで「自然の掟」ではないのか?
自分がこの蝶を助けることで、その蜘蛛は餌を逃すことになり、
もしかしたらその蜘蛛が飢え死にするかも知れない...
(うん...可哀想だけど、このままにしておこう。見たこともないようなとてもきれいな蝶々で
可哀想だけど。ごめんね...)
マツカは一人、心の中で蝶に詫びた。このまま自分がじっと見ていることにすら
罪悪感を感じたマツカはその場を離れようとした。
その時、もう一度見るともなくその蝶が視点に入った。
マツカは動けなくなった。マツカの目に飛び込んできたのは、さっき見た銀色に光る美しい蝶の
羽であった。しかし、その蝶の本体、それはさっき見た蝶のそれではなかった。
マツカの姿がそこにあった。
目をつぶり、少し上気させた(ように見える)顔を横へ向け、弱々しく逃げようとしているかのように
体と羽を動かしているその蝶の本体、それは紛れもなく自分自身、マツカだった。
今、自分が見ている物が飲み込めないマツカはその場で、ただかがみこんだ姿勢のまま動けなくなっていた。
するとさっきまでどこにいたのか、全く見えなかった蜘蛛が巣の上の方から現れた。
真っ黒でその蝶を覆いかぶすには十分な大きさで、真っ赤なルビーのようなきれいな小さな斑点をその
背につけている。
その蜘蛛は、すっとその蝶の上に覆いかぶさった。
蝶はびっくりしたように小刻みに激しく、その緑色の美しい羽を動かし始めた。
しかし、しだいにその羽の動きはゆっくりとなり、止まってしまった。
マツカは、ただその様子を見ていた、というよりも動けずに見入ってしまっていた。
そして、マツカは声にならない悲鳴を、上げた。
その時、マツカの後ろから、聞きなれた低い、威圧感のある声がマツカの名を呼んだ。
「マツカ!こんなところでいつまでぐずぐずしているんだ?今日はいつもより早く局に出向かねばなら
ん日だとわかっているだろう?俺の支度を手伝って、さっさと出かける準備をしろ!」
マツカはその声で我に返った。いつもならマツカをびくつかせずにはおかないキースの怒鳴り声も、な
ぜかとてもありがたく感じた。
マツカは動くようになった体でキースの方を振り返り、
「あっ...す、すみません...洗濯物を干していて...その...蜘蛛の巣とそれに掛かってい
た蝶々を見つけてしまって...」
「何?蜘蛛と蝶?」
マツカはその方向を指差した。しかし...マツカは驚いた。
そこにはさっきまで見ていた光景、蜘蛛の巣とそれに捕らえられていた蝶の姿はそこにはなかった。
「ふ、お前はこんな早朝からもう寝ぼけているのか?そんなもの、どこにも見えんぞ。もっとも”化け
物”のお前には俺には見えん物まで見えるのかも知れんがな」
いつもなら聞いたあと気分が沈み、俯くことしかできないキースの口癖もマツカの耳に入らなかった。
マツカは、もう一度さっきまで見入っていた方向を凝視した。
そこにはただ茂った葉と雑草とそれにのって揺れている朝露の光が目に入るのみであった。
マツカが悲鳴を上げたのは、マツカがその蝶が自分の姿をしていたからではなく、大きな黒い蜘蛛がそ
の自分の姿をしている蝶に襲い掛かったからでもなかった。
マツカが悲鳴を上げたのは...その自分の姿をした蝶が蜘蛛に覆いかぶされ、精を吸われながら、
その羽の動きを止めて正にもう死に行く様子でありながら、その表情が...
まるで蝶が自分のその運命に歓喜しているかのように...
恍惚のような表情に変わっていくのが目に映ったからだった。
「行くぞ。いつまでもぐずぐずしているな。今日はVIPルームで会議があるが、
あんなぼんくら頭共と話をしても埒があかん。メンバーズ特別部隊とミュウの研究ビデオを見ながら
対ミュウ戦闘対策・会議に変更する。」
そういい終えたキースは軍人らしく鍛え抜かれた大きな背中、
地球防衛軍局長の制服である漆黒の戦闘スーツの背中をくるりとマツカに向けて、
また来た道へと戻っていった。
マツカはその真っ黒な大きな背中からまるでその背中から糸でも出ていて、
それに自分が引き寄せられるような感覚に陥った。
ふと振り返ったキースが、いつものように眉間に皺を寄せながら言った。
「マツカ?何をお前は変ににやついて顔をしている?ついに頭でもおかしくなったのか?
ほんとに変な奴だな、お前は...」
「何でもありませんよ...キース...」
マツカは口の端に弱い微笑を浮かべながら銀色のふんわりとした髪に覆われた頭を横に振った。
(さっき僕が見たのは一体何だったんだろう...でも僕は...もう迷うことは何もないのだ。
もう当の昔に自分自身で決めたことを。この人と運命を共にするということを。
例えどんな最後が待っていようとも。それはきっと僕の選んだ、僕の望んだ運命なのだから...)
マツカはさっき見た、ともすれば異様な光景になぜか嫌悪は感じなかった。
それは自分の顔に(見えた)蝶の最後の表情が自分でいうのも変だがとてもきれいで、
そして満足感に包まれた穏やかな表情に見えたからかも知れない。
空の雲が割れ、太陽の光がドームのガラスを通して差し込んできた。
(太陽の光には魔を払う力、そして大きなパワーもある...か...その力が...お日様に当てた
キースの服を通じてキースに届きますように...)
マツカは小走りでキースの大きな黒い背中を追った。
さっきマツカが見た、蜘蛛の巣と大きな黒い蜘蛛と緑色の羽を持つ蝶の光景を見た
葉と草が茂る場所は、まるで何事もなかったかのように
ドーム内に発生させられたそよ風のせいで、さわさわと小さな音を立てて揺れているだけだった。
元拍手にお礼SSとして置かせていただいていたものです。
初SSなので、いろいろとあれですが(汗)
マンガでは自分では描けない、描きにくいネタとかをSSで書かせてもらえたら、と思って書きました。
お読み下さった方、どうもありがとうございました!